万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

吉本せい

関西の万才が東京の寄席に出たのは、大正六年(1917年)の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが第一号でした。関西の落語を漫才にとってかえ、今日の隆盛に導いたのは他でもない吉本興行でしたが、東京にも強力な地盤を築き「マンザイ王国」の名をほしいままにしました。

そして、吉本の歩みは、そのまま万才から漫才への歩みとなっています。
その吉本は、吉本泰三・せい夫婦によって生まれたのですが、大阪ではせいさんの方が圧倒的に有名です。せいさんは「女太閤」とも呼ばれ山崎豊子さんの出世作「花のれん」のモデルともなり、テレビや舞台でも演じられました。

せいさんは昭和23年明石市の生まれ。23才で大阪上町、本町橋ぎわの荒物問屋の若旦那吉本泰三に嫁ぎました。泰三は当時大流行した剣舞にはまり、自分も舞台に出演したり、挙句の果てには太夫元を引き受けたりして道楽が過ぎ、財を失ったそうです。
そこでこの道楽を商売にして、「大阪一の興行師になってやろう!」と一念発起し、当時売りに出ていた天満天神裏の「文芸館」という寄席小屋を手にいれ、姓名学を研究していた落語家の桂太郎に相談し「花月亭」と改称し稼業を始めたのが明治44年です。
最初はあまりパッとしない顔ぶれだったのですが、木戸銭を格安の5銭にして押しまくったといいます。

そしてここを足場に松島新世界福島など、「花月」と名のつく小屋を増やしていき、南地法善寺境内金沢亭を買収、花月の本拠としました。
その躍進途中の大正13年2月、39才の若さで泰三氏が死にました。
泰三の死後せいさんは、生家から林正之助(前吉本会長)、その後その弟の弘高を招いて片腕とし、大進軍の采配をふるいました。

漫才が全盛期に入った昭和9年、「辻阪時事件」という、大阪の興行会をゆさぶった大きな脱税事件に彼女も関わっており、それに伴い正之助にバトンを渡し第一線を退きました。その後昭和9年の東京進出、昭和14年の新興演芸部との攻防、戦災による劇場焼失、戦後の解散など吉本の興亡の姿を見ながら、昭和26年3月60歳で亡くなりました。