日本人の脱力感
本土が次々と空襲によって焼き払われる中、捨丸一行は、まだ被害が甚大ではない北海道で巡業をしていました。
そして目ぼしい所がほとんど焼き払われ、いよいよ北海道にも空襲の波が押し寄せつつあった頃、苫小牧(とまこまい)にて捨丸一行は天皇の重大放送を聞く事になります。
そう、終戦です。
今でも語られる事ですが、国民の脱力感たるや、相当なものだったそうです。
そんな中捨丸は必死に神戸にもどります。この時捨丸56歳。
大阪の復興は割と早かったそうですが、
捨丸は何もかもがパーになつたと思ったらしく、関西を離れ名古屋に行ったそうです。
名古屋には後妻のはなさんと子供がいたからです。
捨丸が死んだ!?
上記のような事情もあり、終戦時捨丸が死んだというデマも流れたそうです。
その後大阪では着々と復興が進み、昭和20年9月には、戎橋松竹座が映画館から演芸館に転向します。
そして、関西の演芸界はここを中心に復興する事になりました。
さて、その戎橋松竹の常連に、捨丸の高弟の砂川菊丸もおりました。
捨丸は名古屋におり、活動していない中、菊丸に二代目を継がせてはどうかという話が、砂川夢丸や花月亭九里丸などから持ち上がります。
すると…なんとこの話を、捨丸はいとも簡単に承諾してしまいました。
ひょっとしたら捨丸は、年齢的にもそろそろ引退するつもりだったのかも知れません。
しかし、民放が生まれラジオが飛躍的に充実し始めると、当然捨丸も引っ張り出されます。
これをまた気軽に捨丸は引き受けるので、
初代と二代目が併立し、 二代目が浮いてしまうという状況になりました。
二代目も変わり者だったようで、元の名前に戻る事をせず、大都市での仕事をきっぱりと辞めてしまったそうです。
しかし決して師匠と仲が悪くなったわけではなく、
捨丸の四男が亡くなった際には甲斐甲斐しく葬式の世話などもしていたと言います。
ともあれ、こうして捨丸は再び演芸の世界に戻ってきました。
ワッハ上方に、二代目が新世界近くの通称「てんのじ村」に住み、多くの芸人に慕われている、というような映像があります。たしかNHK系の番組で、「てんのじ村」を取材するような番組だったと思います。