万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

捨丸の初舞台2

その2

初舞台からの芸の変遷

さて、10歳で初舞台を踏んだ捨丸は、その後も兄の公演について廻り、
明治38年、16歳には大阪松島の堀内席に「萬歳」として一本立ちしていました。
当時の相方は八重春という美人であったそうですが、残念ながら亭号は不明です。

ちょうどこの捨丸が初舞台に立ち16で自立するまでの間は、舞台萬歳の草創期とも言えます。
舞台萬歳とは言っても、芸と芸の間を滑稽な喋りで埋めるという辺りから始まっていきました。
だから萬歳の公演といっても、「式」と称する古典万歳をやるのは一組か二組で、後は諸芸雑芸で埋めていました。
諸芸雑芸とは、祭文チョンガレあほだら経音頭民謡流行歌剣舞などのことです。
こういったものに、「高級萬歳」「尾張萬歳」「名古屋萬歳」あるいは「東京萬歳」 などという看板を出していたらしい。

しかし、今までの舞台に「喋り」という要素が加わった事は大きな変化でした。
また、これにより生来の「どもり」であった千丸は、次第に舞台を捨丸に譲り渡し、元の音頭取り一本に戻っていったそうです。

上記の剣舞はもともと堅苦しいものでしたが、まんざい師達はすぐにこれもディフォルメし、三味線の伴奏を付けた「改良剣舞」やその中間的存在であった「新生剣舞」などを生み出したそうです。
もちろん、そのどれもが捨丸は達者であったそうです。
捨丸70歳の頃、この剣舞を朝日放送で演じた事があるそうなので、是非映像を探してみたいと思っています。