業界の慣わし
敬称というものは業界によって様々なものです。一番身近なところで言うと、国会議員などの事を「センセイ」と言ったりします。まぁ政治家に対する「センセイ」が敬称かどうかは微妙ですが(笑)
また、浪曲の場合も「先生」が多いですね。歌舞伎は昔は「旦那」が多かったようですが、今はどうでしょう。古典芸能は「師匠」と言う場合も多いです。漫才の場合だと、先輩が「兄さん」で、大御所が「師匠」ですね。基本的に落語家や漫才師に「先生」は使いません。
砂川捨丸を除いては。
吉本からの誘い
捨丸桧舞台へ!のページで捨丸が道頓堀に進出した事を述べましたが、この時期既に吉本興業は落語家を全て傘下に収め、安来節のブームを作り出していました。
当然吉本は漫才にも目を向けます。
捨丸に白羽の矢が立てられるのは当然の成り行きであったと言えるでしょう。
吉本は、支度金3万、月給2千円で引き抜きを持ちかけます。
これがとんでもない金額であった事は間違いないのですが、捨丸はこの申し出を断ります。
理由の1つは、彼が樋口興行部に所属していた事です。
2人の関係がどれほどのものであったかは、今まで見てきた通りです。
そしてもう1つの理由は、木戸銭(入場料)です。
道頓堀は50銭、ビラに刷り込まれていた割引券を使っても30銭、
吉本の当時の小屋は10銭でした。
50銭が10銭に落ちるわけにはいかないと。
しかし捨丸が出演すれば、50銭の入場料を取る事もできたはずです。
では他に考えられる理由は何か。
それはお金ではなく、
せっかく地位を押し上げた漫才を、
また小さな小屋に戻したくない、
といった想いがあったのではないかと思われます。
「ここでむざむざ10銭小屋へ帰ったら、花輪で飾ってくれた同業者にもすまないではないか。」
と言っていたらしいのです。
たちまち尊敬の対象に
捨丸が吉本の好条件を蹴ったという話は、たちまち業界に知れ渡ります。
同時に、捨丸に対する尊敬や感心を呼びます。
当時捨丸40手前、髭も生やして日本一の貫禄十分です。
地方の興行師の事務員や旅館の女中は、つい「先生」という言葉を口にしてしまいます。
それが段々と広まっていきます。
普通ならここで同輩などから牽制のブレーキがかかるところですが、吉本の件もあり、誰も先生呼ばわりを止めない。
かくして「捨丸先生」が誕生したわけです。