万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

大和万歳

廃絶した万歳

大和万歳の特徴

百人一首で有名な、藤原定家の日記「明月記」には、
「千秋万歳参内す」と書かれております。
藤原定家は、12世紀から13世紀にかけての人物です。
また、元明天皇(第43代天皇・女帝・707~715年)の前で萬歳楽を舞ったという記述もありますので、野大坪萬歳の継体天皇より、200年程後になります。

以前は奈良県田原本近在の村に伝承されており、NHKによって収録されてたそうですが、このNHKの資料については今後調査したいと思います。大和万歳の本場は、大和の小泉村(現・奈良県郡山郡小泉町)、窪田村(現・奈良県生駒郡安堵村窪田)、箸尾村(現・同北葛城郡広陵町)、百済(同)の一帯と言われています。
ここは京の御所をスポンサーに持ち、京・大阪をマーケットにしていたので、田園育ちの大坪万歳とは別の見識を持っていたようです。

その節は幸若に似ていて、舞は翁に似ているそうです。
「トウトウタラリタラリラリ」から始まり、十二柱の神の名前を言い、 「徳若にご萬歳と枝も栄えまします。愛嬌ありける新玉(あらたま)の、年たちかえる日の朝夕べより水も若やぎ、木の芽も咲き候いけるは、 まことに目出とう候らいける。」
この系統は猿楽から来ているようです。

その他にも「田植舞」「小姓舞」「夷誕生舞」「鳥さし」「競馬」「一月舞」~「十二月舞」「豆まき」などの歌舞があり、夷誕生などは夷の産まれる真似をして、母親が腹を押さえてアイタアイタという所を扮して抱腹絶倒するが、しかし大体は古朴なところがあって上品なもので、1人は鼓、1人は黒骨に鶴亀の文様の扇子を持ち、歌曲に合わせて種々の身振りをして変化極まりなく、いかにも豊かな興味をそそるものであったそうです。
三河、加賀と比べても一等優雅なところがあり、とても優暢な空気を漂わすものであるそうです。

さらに今後の調査課題として書き記しておきますが、実は
河内にも万歳はあったらしいのです。現在は全く絶滅しているようですが。
ただ捨丸は巡業で、
「まんざい」という地名が残っているところへ行った事があるそうなのです。
さらに書いておくと、河内音頭江州音頭の影響を色濃く受けていますが、
河内独自の音頭が瓜破(うりわり)の東の方にあったらしいです。

大和万歳の今

「大衆芸能資料集成」にはかなりの量の詞章が記録されている。
また、伊勢万歳の村田清光氏は父等光氏から大和萬歳を教わった事があるそうで、2008年リバティ大阪にて大和万歳の神力万歳の一節を披露した。