万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

初のレコード吹き込み

レコードの歴史

命を吸い取られる!?

日本に蓄音機が持ち込まれたのは明治19年、陸奥宗光によってですが、
商売として輸入されたのは、明治32年、ホーン商会銀座三光堂主人、松本武一が、
盛り場などで見世物的に手がけたのが始まりでした。
商品としてレコードが大々的に売り出されたのが大正に入ってからなので、ここに書く漫才のレコードの話は、大正5年前後の事であると考えられます。

ある日神戸の捨丸の元へ、日蓄の文芸部長が現れます。
もちろん用件はレコードの吹き込み依頼です。
当時、今では考えられないかも知れませんが、レコードに吹き込みをすると、命を吸い取られるという噂が誠しやかに囁かれていました。
カメラなんかでも最初はそうでした。
それに加えて、レコードに吹き込むと、他の芸人にネタを取られる心配もありました。
諸芸中心だったころの漫才師は、唄1つ、阿呆陀羅経1つ覚えるのに、相当な金と労力をかけけなければならなかったそうです。

しかし捨丸はこの話を快諾します。
芸を取れるものなら取ってみろという自負と、自分の名と漫才を世に広めたいという野心がそうさせたのでしょう。

録音風景

泡吹いて倒れる!?

さて、いざ吹き込みとなるわけですが、何分昔の事です。吹き込みは、大きなラッパのような物に向かって吹き込みます。当然スタジオには冷房などもなく、録音作業は大変なものだったそうです。

そして…ついに病人が出ます!
それは何と捨丸ではなく、録音の外国人技師(笑)
10枚のうち7枚まで録音した時点で、泡を吹いて倒れたそうです。
そんな事情で、とりあえず録音の済んだ7枚が、関東一円に売り出されます。
なんとも大らかな時代です。

レコード、全国へ!

ところが、これが全く売れません。
この時点では捨丸のネームバリューも、関東には通用しなかったわけです。
そこで今度は関西に向けて売り出されます。
これが大当たりしました。
当時3、4万枚で大ヒットでしたが、捨丸のレコードは30万枚も売れたと言います。
捨丸曰く、「レコードのレコード(記録)です。」

そしてこの人気は、東京にも波及します。
東京にはすでに清丸染団冶ウグイス・チャップリンなどの漫才師が居ついていました。
捨丸が東京に進出する準備は十分に整っていたと言えるでしょう。