万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

捨丸松竹へ

戦後のプロダクション

劇場の移り変わり

最終的に捨丸は松竹芸能の所属となったわけですが、
その経緯を説明するのはかなり手順を踏まねばなりません。

戦後大阪で1番最初に復興した劇場は、四ツ橋文楽座です。
これが昭和21年2月1日の話です。
これはその名の通り、文楽の常打ち小屋ですが、
通常1ヶ月の公演なら、大体25日までで、その後は次の公演のための準備と、
出演者の休日にあてられます。
そこに五代目笑福亭松鶴花月亭九里丸らが目をつけて、松竹の白井松次郎会長に貸してくれるよう頼み込みます。
2人の熱意にほだされて、次の公演の準備等諸々の問題をクリアして、文楽劇場での演芸公演が始まります。

その後復興した戎橋松竹座は、映画館から寄席に転向します。この新生戎橋松竹座は、白井会長から嘱託を受けた花月亭九里丸が采配をふるいました。
これが昭和22年9月の話です。

プロダクションの合併

松竹新演芸の誕生

戦後、大阪のプロダクションは、新世プロ上方演芸株式会社の2社でした。

当時、ラジオなどを契機に大阪に戻ってきた捨丸は新世プロに所属していました。
この2社は、専属者や地盤、営業の方針も大きく違ったので、特に摩擦などはありませんでした。
この両者は後に合併するのですが、その契機となったのは初代ミス・ワカナの追善興行でした。
これは昭和33年3月の話です。

この公演が大成功を収め、松竹の首脳陣が演芸を見直し、松竹が中心となり新世プロ、上方演芸株式会社が手を結んで道頓堀で演芸公演を行う事になりました。
劇場は、当時映画の二番館となっていた角座が選ばれました。
これも連日満員が続き、どうせなら3社合同でやるよりも1社にまとまった方が何かと儲かるという事で、
松竹白井昌夫が社長、新世プロ社長勝忠男上方演芸社長秋田実は重役となり、
ここに松竹新演芸(後の松竹芸能)が生まれます。

翌昭和34年1月には新開地の神戸松竹座も演芸の定席として復活。
以前から新世プロと提携していた新世界の新花月、そして本拠角座と合わせて、
3つの定席が出来たわけです。
専属芸人を、この3つの劇場で廻すシステムが確立したわけです。

この中には、新世プロから移ってきた捨丸もおりました。
すなわち、これで捨丸の巡業の旅は一旦終わりを迎えるわけです。
昭和28年にテレビ放送も始まり、
もはや巡業する意味は薄れていたのかも知れません。