万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

捨丸桧舞台へ!

関東大震災、その後に

捨丸の全国行脚

関東大震災の翌大正13年、楽屋入りだけして舞台に出られなかった浅草帝京座へは1月から出演しています。
復興直後のバラックながら、ちょうど正月という事も重なり、大変な評判になったと言います。そして捨丸はそれから3年、この劇場に根を生やす事になります。
しかしさすがにこれ以上関西を留守にしてはおけないという事で、38名の大所帯、関西へ戻る事になります。その途中名古屋で2週間公演を行い、神戸に戻ります。
その後四国の高知を経て九州を廻り、山口、広島で興行を行い、大正15年12月24日神戸に戻って来ました。翌25日は天皇崩御の日でした。

ついにヒノキ舞台に!

そもそも桧舞台とは

その半年後、昭和2年8月の話です。
桧舞台」という言い方は現在でも使われますが、元々は一流の劇場、一面節なしの総桧の舞台の事を言いました。転じて現在では一流の舞台(様々な意味での)へ上がる事を桧舞台に上がると言いますね。
さて、捨丸が上がったのは、道頓堀五座の1番東にあった弁天座です。
その後弁天座は第二次世界大戦の戦災で消失、戦後跡地に道頓堀文楽座が建ち、後に朝日座と名前を変え、昭和59年に閉館しています。
松竹七十年史」によると、「八月二十日より諸芸名人大会、捨丸ほか」とあります。
太夫元は松竹で、松竹は昭和3年には6回の道頓堀で漫才大会を行っています。
それだけ好評だったという事でしょう。

捨丸の与えた感動

捨丸道頓堀進出の報は、漫才界に感動を与えたといわれています。
漫才はボロボロの葦簾張り(よしずばり)のような小屋からスタートしていす。
捨丸自身も、弘法さんや天神さんのお祭りでは、そんな小屋でやっていました。
それが法善寺などの小さな寄席小屋に入り、神戸の大きな劇場に出るようになり、
ついに道頓堀五座に進出を果たしたわけです。
今で言うなら、若手芸人が長い下積みを重ね、ついにテレビで冠番組を勝ち取るようなものでしょうか。
いや、前例がない分、この時の漫才界の感動の方が相当なものだったでしょう。
実際劇場には花輪がズラリと並び、楽屋見舞いが次々と運ばれてきたといいます。

兄の涙

舞台を終えた捨丸が楽屋に戻ると、そこには兄千丸がいました。
そして涙を流しながら、
「捨、よかったなあ。桧舞台に1枚看板を掛けるようになってなあ。」と手を握ります。
「まあ、それも兄やんが、みっしりと仕込んでくれたからや。」捨丸も目が潤みます。
そして兄千丸は、翌昭和4年に亡くなっています。
さて、上にも書きましたが、昭和3年の年末には、松竹は何と浪花座で漫才興行を行っています。
浪花座は、松竹が当時中座の次に大事に扱っていた小屋です。
大阪人の漫才に対する意識の変化が如実に表れていると言えるでしょう。