万歳からのぞきからくりまで 狂言師が実演する放浪芸

玉子家円辰のこと

捨丸の師匠

数少ない捨丸の師匠格

砂川捨丸には師匠と呼べるような人はほとんどいませんが、近代漫才の開祖と言われる玉子屋円辰は、数少ない師匠格と言えるでしょう。
捨丸も「漫才は円辰さんが工夫しやはったもんや」と言っています。
年齢は25歳位円辰の方が上ですが、芸人としての活動期間はそう隔たりはありません。

捨丸と一緒に公演をした、などの記録はありませんが、
関東大震災の時も実は帝京座に捨丸の楽屋を訪ねたり、
円辰は死の直前にも河内を巡業中の捨丸の楽屋を訪ねたりしており、
交流はあったようです。

生まれは慶応元年(!)6月6日、
円辰が亡くなったのは、昭和19年6月19日です。
戦争が終わる前に亡くなっています。
捨丸は「なーに、あんな田舎におればかえって楽だったかも知れない」
と言うように、円辰の住んでいた河内は、当時は正に田舎でした。
実は僕は東大阪の出身なんですが、
どうやら円辰の住んでいたのは瓢箪山の南方、四条畷とかその辺りではないかとの事です。
池の島という所の共同墓地に墓があるそうですが、今はどうなっているのでしょうか。

実は、玉子屋円辰には二代目がいます。しかも現在。
この話は、追いかけられたら追いかけてみたいと思います。