横山エンタツの誘い
戦後、昭和26年に捨丸は渡米して公演を行っています。
この話は中島興行部というところが、横山エンタツに話を持って行き、エンタツが捨丸を誘ったわけです。
しかし肝心のエンタツは既にアチャコとのコンビを解消しており、当時の相方であるエノスケも本業の芝居へ戻りたがっていました。
そして当人も座長として劇団を組み、全国を巡業していました。
今でも一時期大人気だった芸能人が、その後劇団を組み地方を廻るという事はしばしばありますね。
そんなこんなで、結局エンタツは行かず、捨丸を座長として一行が結成されました。
この時のメンバーは捨丸・春代、島ヒロシ・ミスワカサ、ミスワカナ・暁伸の6人でした。
まだまだ海外旅行が大変な時代でした。
ワカサの旅券(パスポート)の番号が70番!だったと言いますから推して知るべしです。
また、当時はまだ海外旅行と言えば飛行機ではなく、汽船が主流でした。
神戸からサンフランシスコまで船で行き、その後ロサンゼルスまでは飛行機でした。この道中も、同行する予定だった中島興行部のマネージャーの旅券が盗まれ乗船できず、さらに向こうの劇場に進呈する緞帳の管理者も急に乗船できなくなり、税関で問いただされたりと、波乱に満ちたものだったそうです。
捨丸の実力と心遣い
ロスでの宿は、日本人経営の都ホテルでした。
初日の前日の夜、中島興行部の社長宅で歓迎パーティーがあり、
それぞれが芸を披露したそうなのですが、ここで非常に興味深い話があります。
捨丸はそこで「御殿萬歳」を披露したというのです。
これは日本人ですら何を言っているのかわからないシロモノですから、
中島さんの奥さんも「これでお客を笑わせることができますか」と不安になったのも無理はありません。
「ええ、大丈夫です。」と捨丸は答えたそうですが、
どうも舞台でやれないものを見せるのが宴席でのエチケットだと考えていたらしいのです。
これはすごいプロ根性だと僕は感心してしまいます。なかなかここまで心遣いができる人はいませんよね。
さて、心配をよそに公演は大成功。
ロサンゼルスを皮切りに、サンフランシスコ、サクラメント、シカゴ、ボストン等を次々と廻りました。基本的には一世の日本人の客が多かったようです。
一行は帰途ハワイにも40日間滞在し、合計で4ヶ月の滞在となりました。
帰国してからも捨丸は、フリーで活動を続けました。
という事は、おそらく名古屋に帰った時点で神戸の樋口興行部との契約は一旦終了していたものと思われます。