尾張万歳の歴史
現在の名古屋市東区矢田町にある長母寺の開山、無住国師が『法華経万歳』を作った事が起源とされているが、他にも諸説ある。
尾張万歳の特徴
尾張万歳には五万歳と言って五つの種類がある。
法華経万歳
無住国師が、鎌倉時代の正応年間(1288~1293)に、寺の雑役をしていた村人に、法華経をわかりやすくし、歌えるものとして教えたのがその起源で、それが知多半島に伝わったとされています。天台宗や日蓮宗の家で行います。
六条万歳
鎌倉時代の僧・親鸞の一代記や、本願寺の御堂のすばらしさを歌ったもの。本願寺のある通りが六条であったことから、このように呼ばれる。浄土真宗の家で行います。
御城万歳
江戸城や江戸の大名屋敷などの繁栄の様子やすばらしさを歌ったもので、江戸やその他の屋敷で行います。
神力万歳
熱田神宮の造営を歌った万歳で,神道の家で行う。
地割万歳
五つのうちで、最も後代の作とみられ、屋敷を建てるときに祝う万歳で、演じる時と場所を選びません。
この地割万歳を基に、後に御殿万歳が考え出されました。
上記の尾張万歳の基本である五万歳は、厳格な内容で作法を重んじることから、面白さに欠けるという面がありました。そのため、面白さを重視した「福倉持倉(ふくらもくら)」という万歳が作られたそうです。
これは、おめでたいものを読み上げて上品な笑いを誘うもので、「なかなかなか…」と歌い出すところから、「なかなか万歳」とも呼ばれます。五万歳のうち、地割万歳以外の万歳を歌った後に、余興として演じられるものです。
捨丸がよく演じていたのも、この「なかなか…」の部分ですね。
御殿万歳
上記五万歳のうち、地割万歳を元にわかりやすく構成されたもので、「柱建て」から始まり「七福神」へと展開する。
三曲万歳
三曲万歳には二種類あり、三味線・鼓・胡弓を持った三人で、なぞかけや秀句をする別名「アイナラエ」というものと、その三人が地方(じかた)にまわり、「忠臣蔵三段目」や「矢口の渡し」段ものの芝居を面白おかしく見せるものがある。
尾張万歳の今
尾張万歳保存会によって保存・継承されている。毎月二回稽古を行っている。
こちらのブログ記事でも紹介しております。
基本的には御殿万歳がメインで伝承されているが、三曲の段物やアイナラエを演じる事もある。また、五万歳についても継承をしている。現在もイベントなどでの引き合いは多く、その分御殿万歳は各地の万歳と比しても洗練されている。
故小沢昭一の「日本の放浪芸」
にも収録されている。